コナン座

コナン座 吉田神社を東に下りると備前堀魂消橋がある。水路を東にしばらく行くと三つ叉橋に出る。今は地中に入ってしまった水路を追っていくと旧名材木町に出る。材木町の石碑の南、スーパー「たいらや」の西の当たりにコナン座という劇場があった。これが出来る前から泉町には「サツマ座」という劇場があり、水戸の上市・下市にそれぞれ劇場があったことになる。この劇場では人形芝居や歌舞伎の興行があった。多目的ホールの感があり、客が続く限りロングランをした形跡がある。ブロードウェー方式である。その中で大当たりをとった記事が下記である。 享保十五年(1731)、八百やお七が五十囘の年也とて、材木町にてお七の上るりを語りし時、殊の外大入にて有候由。其時も蓮乗寺へ石碑を建て弔し也。(水府地誌温故録)薩摩小甚太の興業、記録によると大変繁盛していた。蓮乗寺の石碑は現在残っていないが、寺に寄進するにはよほどの儲けが出たモノと見える。又それが宣伝効果にもなった。当時の劇場は葦簀の上に筵をかぶせた外からの目張りをする程度のモノで急な雨が降ると演目を中止するという程度であった。(石川桃渓「桃渓雑話」)屋根のある劇場はサツマ座の 安永八年(1779)今年府下泉町縫殿左衛門梨園茅葺ヲ止テ上舞臺ニナル(水戸紀年)を待たなければならなかった。文政四年(1821) 二月泉町縫殿左衛門國姓爺操ノ戲場アリ見物群ヲ為ス文政五年(1822) 七月四日材木町ニ縫殿左衛門操アリ文政八年(1825) 二月泉町縫殿左衛門アヤツリアリ 「水戸紀年」文政十年(1827)成る 編者石川愼齋(1773~1851)より「國姓爺合戦」は近松門左衛門の作品で、それまではいくつかの短い人形芝居の演目を変えて一定の時間みせていた。「國姓爺合戦」は一遍の長編ドラマで長さは「心中天網島」と「冥途の飛脚」を合わせたくらい。長時間観客を釘付けに出来る脚本となった。人形浄瑠璃界にとって画期的な物であり演劇史上特筆すべき作品であった。正徳5年11月15日(1711)初演から17カ月間一日も休まず興行されたと伝えられている。コナン座の近くに羅漢寺があった。木食観海が宝暦六年(一七五六)から明和七年(一七七〇)まで十四年間を費やして建立した寺で、五百羅漢像を安置し、高さ九丈二尺余、下階の間数一八間に一四間、上階は十四間に七間で、その宏壮な伽藍は数キロ先から旅人の眼に映り、縁日の物詣でには善男善女で賑わった。(水戸市史中巻)夏の農閑期にはいつもにまして参詣客で賑わった。この人たちを当てにコナン座で人形興業をした。水戸の大薩摩座が最も繁盛した時期である。