伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)
吉田神社の北東に備前堀がある。別名『伊奈堀』とも呼ばれている。これは伊奈備前守忠次が造った堀で、度重なる千波湖の氾濫に頼房の命を受け、治水と利水を兼ねたかんがい用水で、千波湖の水を引き三又橋水門より一部は常澄を経て涸沼川へ、一部は大野を経て那珂川へ至り、その延長は約
12km・21ケ村1000ヘクタールを灌漑した。慶長七年(1602)佐竹氏の秋田移封されると、関東郡代であった忠次に奉行を命じ常陸地域の見地を行わせた。農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めた。この年十月に武田信𠮷が水戸に入る。その十ヶ月後に信𠮷死去、徳川頼宣が藩主となるが、在位中一度も水戸に来たことはなかった。その間、芦沢信重が財務を、伊奈忠次が領内の支配に当たった。慶長十四年徳川頼房が藩主になるが、水戸に入るのは元和五年(1619)であった。慶長15年(1610年)、忠次は61歳で死去、遺領と代官職は嫡男・忠政が継いだ。次男の伊奈半十郎忠治(いな・はんじゅうろうただはる)兄忠政の後をつぎ関東郡代となる。勘定奉行を兼ね、関八州および駿遠参三国の貢税を掌る。忠治の長子、伊奈半左衛門忠克(いな・はんざえもんただかつ)は玉川上水・利根川流路を鬼怒川に結び銚子につなげた。このように、伊奈家は土木治水の地方巧者(じかたこうしゃ)として名を残している。
元治元年八月十日 1864年
水戸藩主徳川慶篤の名代として松平頼徳が水戸城に立てこもる書生派の鎮圧に向かい、城明け渡しを説得するが受け入れられず、抗戦に及んだ。松平頼徳軍は吉田神社、一方書生軍は備前堀側から攻撃。当時七軒町に住んでいた豊田芙雄宅に砲弾が何発も飛び込み、家族は千波湖から舟で弘道館に避難した。豊田芙雄は日本初の公立幼稚園《御茶ノ水付属幼稚園》の最初の保姆になった人である。