吉田神社

私たちの生活している地域にも歴史がある。思いつくまま散策し,物語を紡いでみる。
吉田神社(常陸の三ノ宮) 「吉田神社うしろを経て、僅四町を行過ぎ、登る坂をかわぼう坂といふ。昔平須の住穢多五兵衛が先祖居し所ゆへ此名有といふ」との記述が「水府地理温故録」にある。かわぼう坂は『皮坊坂』とも読めるが資料には見えない。応永末年以来江戸氏が160年水戸に本拠を構えていたが、天正19年3月20日佐竹義宣が攻め落とし、文禄2年(1592)以降、家臣団の屋敷地を造るため、古宿・大坂・宝鏡に城下の整理を始める。場所の移転はこの頃と思われる。地図を見ながら周辺を散策した。吉田神社の南東に栗田緑園が有り細い坂道が続いている。緑豊かで元は栗田家の屋敷で在った、それを水戸市に寄進し公園になったと由来の石碑が建っている。神社から四町程いくと『安楽寺』が、その先三町には、吉田城址に造られた『常照寺』在る。(一町約109m)安楽寺は寛永2年(1625)に大戸村から現在のところに移ってきたと安楽寺縁起に載っていた。大戸村(茨城町)の隣に平須(水戸市)がある。関連があるかと思ったが、神社の南東は正面参道にあたり、上の記事とは違う。吉田神社の後ろと言えば南に向かう参道がある。その道を行くと180号線に出る。この道が「かわぼう坂」かと案じて四町ほど歩くと『神楽屋敷跡』の石碑が「水戸太神楽はこの地より発祥した。」と道路脇に立っている。その向かいの路地を東に入り、80m道なりに行くと「車丹波守憤恨の地」の石碑が建っている。車丹波の墓も在ると書かれている。車丹波猛虎は佐竹の家臣で、『常照寺』の建立前にあった吉田城主として車丹波がいた時代もあった。佐竹氏の秋田移封に対して水戸を奪還すべく戦いを挑んだが捕まりこの地で処刑された。車丹波の処刑を聞いた家康は「徳川家康亦其勇ヲ賞ス、其之磔殺スト聞き悦バズシテ曰ワク、是勇士ヲ殺スノ法ニ非ズト」 と残念がった。吉田松陰も1852年にこの地を訪れている。(『東北遊日記』)その時丹波と共に戦った弟善七は、この後逃げて江戸に潜伏する。が捕まり将軍秀忠に詰問される。「徳川家に三度反旗を掲げた。速やかに処罰してくれ」という善七に秀忠は「殺すには忍びないと徳川に仕えないか」とを勧める。ならば善七は乞丐(コツガイ乞食のこと)にしてくれと頼む。秀忠はそれを許し乞丐の長とした。江戸時代から明治につながる、穢多頭弾左衛門と非人頭車善七が穢多非人河原乞食まで管轄するようになった。江戸時代、士農工商の身分の下に穢多非人と呼ばれた皮革職人、屠殺業者、遊行の芸人、(神楽師・人形回し・琵琶法師・瞽女)などがいた。定住しないで村々を歩いて芸を見せている人々、死んだ馬や牛を捌いて毛皮と食肉にする職業の人を忌み嫌い、このような身分にし差別していた時代があった。これらを管理統括する役目が幕府から認められ、穢多頭・非人頭がいた。問題が起こると奉行所に直訴している記録もたくさん残っている。平須に移った穢多五兵衛の子孫は江戸の弾左衛門の支配を受けず独自に穢多非人を管轄する時期もあり記録に残されている。(参考文献「新編常陸国誌」)ところが、「水戸市史上巻」によると、善七は車丹波の弟孫左衛門の子どもで、非人頭車善七は俗説で信用が出来ない。車善七は実在していた古文書はたくさん出ているが、車丹波との関係は疑わしいという説を述べる学者もいる。『フーテンの寅』こと車寅次郎は香具師で、非人頭の所管で在ることから、名前は非人頭車善七から採ったのではないかと疑っているのだが、こればかりは,山田洋次さんに聞かねば判らない。