大薩摩の始まり

大薩摩の成立
いつ頃から水戸の大薩摩が成立したのかを探っていく。

石川愼齋『水戸紀年』(茨城県資料‐近世政治編一)
元和二年丙辰
正月十一日 神君ヨリアヤツリ縫殿左術門ヲ 公ニ賜ハリ府下ニテ興行シ純子ノ幕ヲ賜フ四年六月九日大薩摩ノ名ヲユルサレ大鼓幕ヲタマフ
延賓八年庚申(1665年)
 四月荒町縫殿左衛門二嶋原ノ戯場ヲユルス又天王社中ニモコレヲ設ク小振又太郎両手古傅内河原崎権之助コレヲ大夫トス

石川久徴『桃蹊雑話』(昭和一五年・水戸・協文社)
○泉町大薩摩縫殿左術門は久しき者にて、東照宮御祭譜の時、風流物を出し、御供するなり。
彼が家の由緒書左に寫す。
一元和二年丙辰正月十一日 殿様より権現様へ御願の上、先祖縫縫殿左衛門へ人形芝居御見被仰耐於江戸被遊 上覧い其節純子幕拝領仕候。
一同四戊午年六月九日、大薩摩名代於江戸・御見相済、太鼓幕被下置御町人格に被仰付候
一同七辛酉正月下御町にて土地拝領、芝居興行仕候。
一同九発亥二月御町人格に御取立被下貝御祭禧供奉被仰付い子供躍作り物指出、役者供奉御免被仰付候。
一上町居屋鋪井いつの比より上町へも右芝川興行仕候と申儀は当時分り兼候。
一関東十八座操株の外に御座候。男て機多等の支配には更に無之事。右芝居浄瑠璃、享保元文の比までは当地の事を作りて語りしとぞ。入四間の本地一盛長者、薄墨、佐久良など。云ふもの也と老人の物語甚古雅なることなり。                (九一頁~九二頁)

高倉胤明『水府地理温古録』(茨城県史編纂委員会『茨城県史料 近世地誌編』)
一 人形芝居の座本大薩摩縫殿左衛門、操株起立の次第、先年町奉行處江書出せし趣、左之通り。
一 元和二丙辰正月十一日 殿様より 権現様へ御願の上先般縫殿左衛門へ人形芝居御免被仰付、於江戸被遊上覧、其節緞子幕拝領仕候。
胤明案るに、元和二、源威君御年十四に被為富、権現様盛去のとしなり。
一 同四戊午年六月九日大薩摩名代於江戸 御免相済。大鼓幕被下置、御町人格に被仰付候。
一 同七辛酉正月下御町にて土地拝領芝居興行仕候。
胤明案るに、元和七は下町開発以前也。然共下街もところ〴〵に宿家有つる由なりせばかくも有しか。天和、貞享、元禄の境ひにもや、本六町目の北側の中程にて興行し、享保年間、七関町の西うしろにて興行し、夫より材木町小甚太といふ者縫殿左衛門由緒此小甚太は我等幼少の時七十有余にて、元禄年中生まれの男なりけらし、外記といふ筋の上るりをかたりけるをおぼへしの屋敷にて、年久敷語りしなり。天明中、本貳町め北側にて語りたる事もあり。下町は夏芝居を定式とす。此下町にて土地拝領といふ事いぶかし。
一 同九癸二月御町人格に御取立被下置、御祭確禧供奉被 仰付。子供躍作り物指出、役者供奉御免被 仰付候。
胤明案るに、御祭禮の節、子供躍等差出候は、此年暦より以後成べし。寺社便覧、御宮の部にて考へ見つべし。

加藤松羅「与聞小識」(茨城県史編纂室)
【明暦弐年申  卯月一七日御祭礼之次第(中略)
「乗かけ五駄さつま大夫 一、志ない笠ほこ一本さつま太夫一おとり一組用人 但おとり子四十五人中おとり子六人篤事役者弐十人(後略)]
【さつま大夫事大分之おとりを仕候へ共是ハ御願を以御町二而あやつり被仰付其外方々ニ而少であやつり仕候 付御かけを以おとり仕候義二御座候おとり御免被遊候 其あやつりを御祭礼故人宿を致諸向仕かろき二罷成候(中略)右寛文二年寅九月一二日申出候】

※元和二年(1616)一月十一日に、家康が水戸初代藩主頼房に芝居縫殿左衛門を下賜し、こえて同四年六月九日、この芝居に大薩摩の名を許可したという。七年一月に縫殿左衛門に下市七軒町に土地を与えて興行させたという。(水戸の大薩摩座と人形芝居 旭寿山)※
旭寿山の出典が判らないが下市七軒町は千波湖と陸地を隔てた場所である。明治になって千波湖の埋め立てがなされる前は七軒町が境になっていた。七軒町から備前堀が続いていく。

それぞれの書かれた時期は下記の通りである
石川憤斎『水戸紀年』 文化十年(1813)
石川久徴『桃蹊雑話』 寛政二年(1790)
高倉胤明『水府地理温古録』   天明三年(1783)
加藤松羅「与聞小識」(茨城県史編纂室)
『水戸紀年』『桃蹊雑話』『水府地理温古録』書かれた時期は、「大薩摩を、家康より頼房に賜った」とされる元和二年(1616)より約二百年近く後のことで、安永・天明・寛政(1772~1801)は水戸大薩摩が盛んに上演していた頃でもある。大薩摩座元の由緒書や家伝があってそこから取材した物が多い。座元が奉行所に次第を提出し、それを述べている。いずれも元和二丙辰正月十一日で、緞子幕を拝領している。水戸藩の元和期の資料はなくいずれも当時の大薩摩からの伝を奉行所が書き取ったものを取材した。
元和二年(1616)一月十一日の記述を調べてみる。
「徳川実記」によると元和二年一月元日二日は、江戸城において諸礼儀が復活した、大阪の乱(冬の陣・夏の陣)で取りやめていた行事である。天下が治まった、祝いでもある。それに、頼房は参内している。
「一月廿一日駿府にては 大御所田中へ放鷹し給ふ。宰相頼宣卿。少将頼房朝臣も陪従せらる。」と家康の鷹狩りに随行している。この途中家康は具合が悪くなり四月一七日家康莞す。
元和二年丙辰正月十一日 殿様より権現様へ御願の上、先祖縫縫殿左衛門へ人形芝居御見被仰耐於江戸被遊(江戸において縫殿左衛門を賜り、それを観た)
これらの記事がその通りだとすると江戸と駿府と慌ただしく移動している。
同七辛酉正月下御町にて土地拝領芝居興行仕候。
高倉胤明『水府地理温古録』で下市(下町)は千波湖につながる湿地帯でおよそ人が住む土地がないと指摘している。田町越えと呼ばれる下市開発は元和八年頃から始められ寛永二年(1624)に田町と呼ばれる新町が築かれた。「然共下街もところどころに宿家有つる由なりせばかくも有しか。」とも述べていることから、多少は人の住むことが出来る場所もあったのではないかと考えている。

石川久徴『桃蹊雑話』は
泉町大薩摩縫殿左術門は久しき者にて、東照宮御祭譜の時、風流物を出し、御供するなり。
東照宮の祭礼の絵図がいくつか残っている。
同九癸二月御町人格に御取立被下置、御祭確禧供奉被 仰付。子供躍作り物指出、役者供奉御免被 仰付候。
最初の頃は、子供躍など人々の練り歩きで、後に人形をもって、幕の後ろから動かしてみせた。